剥奪

 まず奪ったのは目だった。

「顕光殿」

帳台に呼びかければ虚ろな何も映さない瞳を持つ頭が此方を向く。「道満か」と枯れた唇で小さく呟く。やせ細った身体は着込んでもその細さを物語る。目の代わりに耳をたよりに、触れる指先をたよりに生きるようになった顕光の生活範囲は狭まり、内裏での仕事は出来なくなった。


 次に奪ったのは味覚だ。家の中でのみ生活する顕光の数少ない楽しみの食事を奪った。顕光は残念がっていたが、仕方ないと歳のせいにして諦めた。


 嗅覚を奪った。花の香り、新しい練り香の香りを楽しんでいた顕光からそれを奪った。残ったのは触覚と聴覚。楽しみが道満や家司との話しか無くなった顕光は常に誰かを隣に置くようになった。


「顕光殿、今日のお加減はいかがでしょうか?」

「いつもよりかは、幾分良い」

「それは良かった」

 顕光殿の世界は狭くなった。今顕光殿の周りにいる人間は道満と家司である氏忠のみ。道満と氏忠の声と触れる感覚のみで構成される世界。今のところ順調に行っている。道満は盲目の相手の前で口角を釣り上げた。

 顕光は道満に心を許している。甲斐甲斐しく世話をし、共にいる時間を長く設けることでその事実が作られた。

 本来であれば、顕光殿のような高貴な御仁が道満のような一法師陰陽師に心を許すことなどあるはずもない。しかし。他の公卿達に罵られてきた顕光にとって、道満は数少ない召使いではない友人に限りなく近いものだった。

 春の訪れを満開に咲きほこる桜と鳥たちが告げていることを顕光に伝えれば、もうそんな時期かと笑った。顕光は畳から体を起こし、道満がいるであろう方向に手を差し出した。

「伴を」


 庭先へ顕光を連れ出す。片手を取り、もう片方の手は背を回すように握る。視覚を失ってから、まともに歩くことさえ難しくなった顕光を支えて道満は歩く。春の陽光が暖かく顕光と道満を包む。穏やかな風と、山にちらほらとみえる桜。情景を道満の口から言葉を紡げば、心地良さそうに目を細めて微笑んだ。

 何処からともなく飛んできた桜の花弁が顕光の唇に落ちる。違和感に気がついた顕光が身じろぎする。

「おやおや、顕光殿は花に好かれておられる」

 失礼致しますぞ、と前置いて唇に手を伸ばす。薄く色づいたそれを指でつまみ、風に乗せる。ふらり、と体が揺れる。背に回した腕で支えると顕光は申し訳なさそうな表情を浮かべる。

「戻りましょうか?」

「いや、もう少し……、良いか?」

「いえ、かまいませんとも」

 体を支えられたまま、しばらく何を語ることもなく、春の日差しに照らされた。浅い呼吸が軽すぎる体重を支える腕にわずかに伝わる。風が花弁を髪や肩に届けるたびに静かに取り除く。偶然であろうと、今、主人に触れることを許さないとでも言う様に。


 逢魔時。いつの間にか眠ってしまった顕光を帳台に届ける。両腕で抱えた顕光を静かに畳の上へ横にする。先ほどよりも浅い呼吸をする顕光の胸に手を当てる。肺の膨らむ感覚、わずかに感じる心拍とも違う、顕光が持っていた悪霊としての拍動。それがもうほとんど顕光の魂を悪霊へと変質していることを告げている。道満はほくそ笑み、ゆっくり手を離す。

 初めは、それが目的だった。もとよりあった悪霊としての才能は、死後、顕光の本心など関係なく確実に悪霊となって花開く。若かりし頃から貯め続けた呪から生み出される悪霊は、道満にとって非常に魅力的だった。京を呪うには、その分強力な式神が必要。しかし、面識のない悪霊は制御できなくはないが、力の髄まで引き出すのは難しいだろう。故に近づいた。他の公卿たちより優しすぎる顕光は簡単に道満を信用した。本来は、そこで止めるつもりだったのだ。

 顕光が苦しげに身じろぎをする。

 もう少し、もう少しと伸ばし続けてこんなに生かし続けている。もちろん、長く生きた方が呪いを多く溜め込み強力になるから都合はいいのだが。

 もちろん、無理矢理生かし続けることに対して胸など痛まない。生かし続ける意味もないが、今殺す意味もない。いづれにしろ行うことは何も変わらないのだ。そうこれは、嵐の前の静けさ、気まぐれの友人ごっこ。己の支配欲に任せた何か。遊び半分に始めたのが、単純に手放すのが惜しくなっただけ。道満にとってそれはそう言ったものであった。

 眠ったままの顕光を起こさぬよう、静かに帳台を抜けた。茜色の空に薄く雲が引いている。

「道満」

振り向けば起きてしまったのか、顕光が声をかけきた。

「如何なさいましたか、顕光殿」

「京を燃やし尽くすのは、面白そうだとは思わぬか」

「は……

突然の質問に道満は返答を返せなかった。ここまで悪霊と化していながら、今まで一度も悪霊らしい言動など見られなかった顕光に驚いていた。

「公卿どもが苦しみもがくのはさぞ愉快だと思うのだ」

……

「なあ、道満」

……ええ、地獄のような有様でしょうな」

そういえば満足そうに笑いまた眠りについた。道満はまだ帳台の向こうから顕光を眺めていた。

 夕日が山の向こうへと落ちた。