あれから、若い頃の姿の顕光がカルデアを彷徨いている。以前よりずっと穏やかな顕光に物珍しさに噂になったが、数日もすれば立ち消えた。

 顕光もカルデアでの生活に馴染んでいるようだ。

 喜ばしいことだろう。以前のように毎夜の如く犯されることも無く、呪われることも無く、穏やかなのだから。

 だが、顕光殿はまた自分を殺してしまった。これは、私の望んだことではない。

 かつての、平安京での顕光殿と変わらなくなってしまった。ようやく、顕光殿が自由に生きられる、そう思った。


「顕光」

 無機質な廊下で声をかける。目の眩むほど、美しい作られた笑顔で振り向いた。切れ長の目と、弧を描く薄いくちびる。都でよく見た無能の顔だった。

「おや、道長殿。どうされた」

 激情も向けず、穏やかで。波に逆らわず流されるような。私が会いたかった顕光とは別人のような。

 道長は眉間のシワを深めた。

「暇のある日はあるだろうか」

 私を憎んだあなたがそんなに簡単に消えるはずがない。人格までを改竄した理由を知らなくてはならない。私はまだ、あなたに許されていない。

 ああ、そうか。私はまだ許して欲しかったのか。

「暇、か」

 暫し考えるような仕草をして顕光は答えた。俯いていた顕光は道長の変化には気がつかなかったようだ。

「そうだな、明後日であれば時間は作れるぞ」

 まっすぐ目を見て、微笑む顕光に胸が苦しくなる。

「では、明後日。シュミレーター室の前で」

「ああ、わかった」

 できるはずのなかった二度目の約束を取り付けた。


 

 約束の時間が訪れた。

 シュミレーターのひとつを貸し切る。明日の朝まで。誰の干渉も受けないように晴明にも協力させて術式を張った。これであれば、何が起こってもシュミレーター内の記録にも、誰の目にも入ることは無い。

「そろそろ、来る頃か」

 顕光を迎えるための準備は整えた。平安の都に近しい作りの屋敷に、大きな庭と池。美味い酒。明るすぎる満月が全てを静かに照らしている。まさに、月見酒にもってこいの場だ。


「御堂関白殿」

 シュミレーターから抜け出せば顕光が待っていた。穏やかな笑顔で。何も疑いもしないという顔で。一体この顔で何人が騙されてきたのか、分かっているのだろうか。

「早いな」

「ふふ、今日は思ったより周回が早く終わってな」

 少し疲れたような顔を見せるが、笑みは絶やさない。本心はひとつも語らない。顕光の良いところであり悪いところ。

 少し道長の顔が曇ったことに気がついたのか、顕光が不思議そうに顔を覗き込んでくる。

「どうかしたか」

「いや」

 道長は踵を返し、シュミレーターへ進む。

「こちらへ」

 灯りのつけられていないシュミレーター室の奥。そこへ誘う道長の伸ばされた手を顕光は掴んだ。


「いい場所だ」

 顕光が庭先へ出ていた。月明かりに照らされた、青白い肌が美しい。池に近づいて鯉を愛でたり、草木を愛でたり。自由に歩くその後ろをじっと着いて行った。

 その表情は穏やかで、道長を呪い殺そうとした顕光とはあまりに違って。

 本当に元に戻そうとしてもいいのかと迷いさえ生じるが、欲しいものは欲しいように手に入れねばならない。変質は許さない。私は私に正直なあの人が好きだったのであって、都の綺麗なだけの愚か者など小指の甘皮ほども好きじゃない。

 穏やかな関係になればいいというものでもない。

 それを理解しなかった顕光に、どう伝えればいいのかも分からない。彼奴はいつも自分を殺すことを最前と信じている。

「顕光殿、こちらへ」

 酒を並べて、いくつかの肴を用意して顕光へ声をかける。景色を楽しんでいた顕光もフラフラとこちらへよってくる。

 うっすらと笑みを浮かべた顕光が近くにくるまで、道長は固まっていた。見惚れていたのだ。

 初恋の人に再会しているようなものだ。見惚れていても仕方がないと思いたい。月の灯りしかないため頬の赤みも見えにくいとは思う。だが顕光には見せたくないという羞恥心はそれだけでは払拭できず、道長はそそくさと酒の元へと逃げた。


 あの時と同じく酒を交わす。酒も肴上物で、あの時の状況とほぼ同じだが、2人は全く話さなかった。静かに酒を飲んで、肴をつまみ、視線を交わすことも無く。ただ、シュミレーターによって、再現された鈴虫の声を聞いていた。

 月をうかべた盃を、細い指で口元まで寄せて、飲みきるまで。美しい所作は見とれるほど。それがどうしようもなく道長の頭を痛ませる。


「顕光殿」

 重々しく口を開いたのは道長からだった。

 酒を一口含んだ顕光がこちらを見ている。藤紫に墨を少し零したような目がこちらを見透かしている。

「なぜ、人格を書き換えた」

 道長が尋ねれば、顕光は綺麗な顔で答えた。薄い唇が弧を描き、言葉を返す。

「おかしなことを聞く」

 くすくすとおかしなことを言われたかのように。細い指を口元まで持っていく。

「言ったはずだぞ。お前の望んだとおりにした」

 道長は動揺した。そのようなことを言った覚えが全くと言っていいほどなかった。その動揺は表情にも表れていたようで、顕光は笑みを深めている。

「私がいつ、あなたにそんな願いをした」

 声が震えた。それは確かに顕光にも届き、ほんの少しばかりバツの悪そうな顔をした。

「したとも、紫式部殿の泰山解説祭とやらにかかっていたではないか」


 

……見ていたのか」

 僅かな沈黙と、月の影に滲むような声。酒の入った盃を持った手が震えている。

「盗み見たみたいで悪かった」

「いや、いい」

 顕光が謝るが道長は軽く手を振って気にしないことにした。知られてしまったのなら仕方なし、後からどうにでもできる事柄でもない。

 道長は酒を零す前に一口に飲み込んだ。


「道長」

 顕光は声をかけてきた。

 短い言葉だが鋭さはなく、穏やかな、暖かな、声色が伝わる。それにほんの少しばかりの喜びを噛み締めつつ返答を返す。

「なんだ」

「今の私は嫌いか」


「ああ、嫌いだ」

 僅かな沈黙の後、顕光に穏やかに答えた。

……そうか」

 目を伏せて顕光が呟いた。先程の柔らかな雰囲気とは一転し、仄暗い雰囲気を顕光がまとい始める。

 ああ、いけない。これは良くない。内裏にいた頃の顕光と変わらない。

 だが、その目のままこちらを見つめてきた。

「私も、お前のことが嫌いだ」

 

「知っている」

 当然とばかりに返答する。そして、心底安心する。

「お前はずるい、いつも身勝手だ」

 子供のような悪態に思わず笑みがこぼれてしまう。

「お前こそ、いつも勝手に自分を殺す」

 内裏でも。今でも顕光は変わりない。

……殺してるつもりは無いよ」

 顕光が一瞬驚いたような顔をして、言葉を返す。

「そうだろうな」

「道長」

「なんだ」

 再度、顕光から声をかけられる。

「前の私に、戻った方がいいか」

 暗い水底のような瞳が、こちらを覗いている。

……違う、そういうことでは無い」

 月に雲がかかる。庭はが夜らしく暗くなり、広い池に乱反射した光が静かに沈んでいく。

 顕光の顔に影がかかり、辺りはしんと静まり返る。

 嫌な緊張感が道長を襲った。

「そうか?」

「ああ」


「私では駄目か」

 僅かな悲しみを乗せたような声を聞いた。間違いを犯した子供のような声だった。

 道長は返答できずにいた。この顕光も大切な思い出の人に違いはない。

「道長」

 返事を催促するように道長が呟いた。

「穏やかな関係も約束する。望むなら、閨だって」

「そういうところだ。あなたは何がしたいんだ」

 縋るような声が聞こえる。それに僅かな怒りと悲しみを覚えた。そうやって、人に縋って頼って、自分を出さないあなたが嫌いだった。


「私は、いつもお前を傷つけたことを後悔していた。初めて呪ってしまった日から、な」

 顕光は独り言のように呟いた。それに道長は口を開いて固まってしまった。虚ろな黒い目を伏せながら顕光が語る。

「呪いたくないゆえ避ける、または悪霊だからと開き直って好き勝手するなどしたが、結局は全て後悔していた」

 顕光の独白に、道長は混乱するばかりだった。

「何を……

「だから、遅かれ早かれこうしていた。お前が気にすることなど何も無い」

 私は、顕光が自分の欲のままに、正直に呪ってくれたと思っていたが、違ったのだろうか。

 道長はそのようなことを思いながら、泳ぐ目線をどうにかしようと瞬きした。あの時の状態を本心と勘違いした未熟さに愚かささえ覚える。

 だが、そうだとしても。

「私は、顕光殿に正直に生きていて欲しいと思う」

「顕光殿はいつも自分を優先しない」

「少しぐらい我欲を持て」

 ぽつぽつと道長は呟いた。


「そんなこと言われてもな……

 顕光は困惑したように眉を八の字にした。うつろな目は空の盃を映している。

「顕光殿がもとより我を出さないのは知っている」

「ここは内裏では無い」

「だからこそ、自分を殺さないで頂きたい」

 道長が言葉を発すると、顕光が顔を上げた。顕光の暗い目が、道長の目を突き刺してくる。背けたくなるような痛々しい目だが、道長が目をそらさずにいると顕光は口を開いた。


……道長殿を呪うかもしれないとしても?」

 暗い目には、鋭さがあった。晩年の顕光が有した呪いの性による、人を呪いで射殺すような鋭さが。

「勿論」

 それに当然と答えた。ほんの少しだけ、顕光の薄い唇の口角が持ち上がる。

……ほんとに変わらないな」

 暗い目には、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけかつての懐かしい、淡い藤色の光が浮かんだ。それを見間違いだとは思いたくなかった。

「私は、君を許さないよ」

「ああ、どうか許さないでくれ」




「あれ、今日はいつもの香りと違うんですね」

 周回に呼びに来たマスターが男に声をかけた。

「嗚呼、いい香りだろう?」

 男は自慢げに答えた。

「はい!凄くいい香りだと思います!」

 その返事に男は満足気に目を細めて笑った。


 顕光との関係は変わっていない。互いにカルデアを満喫し、時々気まぐれに顕光が呪いに来る。

 変わったことといえばその関係も互いに悪くないと思っただけの事。不明瞭な感情に名前をつけるよりかは、曖昧な関係に甘えた方が楽だった。

 顕光が私の娘を殺したことも、私がそれを恨んだことも忘れてはいない。そして、かつて大切に思っていたことも忘れてはいない。

 それでも、もし、夢物語でも。顕光と同じ夢を描いて、また同じ道を進めるのなら、それ以上求めるものは無いと。かつての私になら笑われるようなことを私は心底、喜んでいるのだ。