悪手

曇り空の続く今日この頃。仕事が終わり、家で何をすることも無く暇を持て余した私に一人の男が会いに来た。京で名の知らぬものはおらぬ陰陽師、安倍晴明だ。珍しいこともある。道長に仕えるあの男が、道長の目の敵にしていると噂されている男の元へ来るとは。

「これはこれは、安倍晴明殿。なにか、御用ですか?」

にこり、と微笑むと、普段とはほんの少し違和感を感じる表情を浮かべていた。極々小さな差違ではある。普段は何とも取れぬ表情をしているのに、何か考え事でもしているのか。

「ええ、少しお伝えしたいことが。」

話してきた内容は仕事のことだった。まあ、道長の小言も含まれていたが、まあよく言われることなので気にして等いない。それよりもずっとどこか普段と違う晴明の表情が気にかかった。政のことだろうか、それとも道長のことだろうか。

「――これで全てをお伝えしました。」

話し終わった晴明の顔はあいも変わらず、ここまで表情が普段に戻らぬのも不思議だ。まるで伝えることを躊躇するような、しかし、どこか話したがっているような……。ここで聞くのもいいかもしれない。

「おや、もう1つ話があるのではないのか?」

尋ねれば少し弾かれたように目を開く。おや、こやつでもそんな顔ができたのか。

「何故、」

「ふ、そんな顔しておったら嫌でもわかるわ」

軽く笑い、晴明を見る。

「……蘆屋道満と会うことをやめていただきたい」

返答は予想外のものだった。

道満は恋仲の関係だ。元を辿れば、道満とはただの知人だった。安倍晴明に挑み続ける1人の陰陽師として、どのような人か気になり家に招いたのが始まりだ。そこから意気投合して、傷の舐め合いのような関係を続けていたが、つい先日晴れて夫婦となった。

ああ、もしかしたらこやつも道満のことを好いていたのかもしれない。

「ほう、何故?」

「顕光殿と共におられることで道満の評判が悪しき陰陽師となっています」

「それはお前と勝負を続けるからであろう?」

かの安倍晴明と対立する陰陽師、播磨から来た法師の陰陽師とあれば、卑しき噂の一つや二つ出てきておかしくはない。そう言えばほんの少し顔を歪めた晴明が続けた。

「道満が顕光殿のところに通うことで、誰かを呪っているのではと噂が」

「それこそ、お前が否定すれば良い。実際に今は何もないのだから。お前だってわかっているだろう?呪術にたけたお前であれば。」

その程度でわざわざ私に進言する必要も無いくらい分かるだろうに。苦虫を噛み潰したような顔をしよって。ふふふ、もう少し感情のない人間だと思っていたが、こやつも人の子か。

「……。」

「そういう理由ではないのだろう?晴明殿。」

「……。」

「お前の感情のまま来たくせに、それを伝えないのだな?」

「……。」

「それともなんだ。その感情の名前さえ知らぬというか?」

「……これ以上、道満と関わらないでいただきたい。あれは私のものだ。」

返答は予想外のものだった。思わず笑いがこみあげてくる!よもや、あの晴明が道満を所有物と認識しているとは!!道満が聞いたら顔が鬼灯のように赤くなったに違いない。

突然笑いだした私を見て晴明は固まっていた。

「……ははは!そうか、そう来たか!ははは!

して、その言葉道満の許しは得てるのか?」

「何?」

晴明は少し驚いたような顔をした。

「いや、道満はお前のものであることを認めているのかということだ。どうせお前のことだ。自分が思っているならば相手も思っているなぞ、子供じみたことを考えているのだろう?」

そう言えば少し目を細めた。私としたことが、少し危ない橋を渡りすぎたかな。

「……言葉が過ぎますぞ、顕光殿。」

表情はほとんど変わらずだが、何処か殺気じみた晴明を見て思わず笑みが零れてしまう。若作りの爺かと思っていたが、案外精神は外見相応なのかもしれない。

「はっ!邪魔であれば呪いでもなんでもあるだろう?そんなに道満が欲しいなら、術でもなんでも使って殺せばいい。ただの老いぼれさ、簡単に死ぬだろう。」

そう言えば、黙り込んだ。いつもと変わらぬ表情の晴明はいつになく揺らいでいるようにも見えた。

「……、」

「……今日はもう帰りなさい。その感情に整理がついたなら、その時また話そう。時間は開けておく。」

晴明を屋敷から送り出す。部屋の先から見えた曇天はどこからともなく雷鳴の音を伝えてきた。

晴明が己の心を理解したなら、その時は道満も交えて話そう。どうせ後先ない老いぼれの泡沫の夢に付き合わせているのだ。もう潮時かもしれない。



私は曇天の空の下、陰陽寮にある自室に向かって歩いていた。

私は道満についてどう思っているのか。道満は私の唯一の遊び相手だ。唯一私を正しく見てくれた人物。飽きもせず挑み続けてくれるたった一人の人物。私に楽しみをくれた人物。麗しい顔をもつ人。私だけを見ていて欲しい人。私だけに、その激情をぶつけて欲しい。それ以外は許さない。

そう言えば、たった一人の人物に思考を全て奪われること、それを人は恋だと言った。そうか、私は道満に恋をしているのか。

私は道満を自分のものにしたい。あの目に私以外は映さなくていい。嫉妬でも怒りでも、憧れでも。どの感情でも、私に噛み付く猫のようにあって、私の実力を認める唯一の人物として。唯一の存在として。



その夕暮れ道満がやってきた。曇天は益々重くなり、雷鳴の音が近づいているのがわかった。

道満が目の前に差し出したのは、普段使っている札とは少し模様の違うものだった。

「胸騒ぎがするのです。儂の予感は昔からよくあたりましたので、今日はこの札をもって眠ってください。あるだけの力を込めました。晴明でも無ければこれを破ることは出来ぬでしょう。」

そう言って手渡す道満は心配そうな顔を浮かべていた。普段ならつり上がっているはずの八の字に下がった眉。雰囲気はいつにも増して憂いを帯びている。

「そうか、わかった。わざわざありがとう、道満。」

札を受け取る。謝意を伝えれば、ますます申し訳なさそうにする道満が目に入る。

「いえ、本来ではあれば儂も一緒にいたいのですが、生憎今宵は……」

「ああ、聞いている。依頼だろう。行ってくるといい。お前の札があれば十分だよ。」

札を少し持ち上げ、にこりと微笑む。ほんの少し頬を赤く染めた道満が軽く頭を下げる。

「……ありがとうございます。では、」

「ああ、……道満。」

「はい?」

立ち去ろうとする道満を一声かけて引き止める。振り向いた道満は小首を傾げている。キョトンとした顔がなんとも愛らしい。しかし、それを愛でている時間は生憎道満には無いようだから、簡潔に伝えるとしよう。

「愛しているぞ。」

そのまま言葉にして伝えれば、先ほどより1層赤く頬を染める道満がいた。猫が毛を逆立てたように髪が動く。髪に括りつけられた鈴がチリン、と控えめに鳴った。

「なっ……い、いきなりなんですか!」

黒曜石の目を大きくして、照れ隠しも出来ずにわなわなと震えている。ああ、やはり愛しい。

「なんだ、答えてはくれぬのか?」

真っ赤な顔の道満は言葉を少し溜めながらも答えてくれた。

「ン、ンンンッ……あ、愛しておりまする、顕光殿。」

「ふふ、」

ああ、あまりに愛らしくて笑みが零れてしまう。

「ンンンー!笑わないでください!では!今度こそ行ってまいります!!」

「ああ、行っておいで。」

道満を見送る。もし、道満が晴明に着いていくことを選んだなら、私は今と同じように送り出せるだろうか。幸せを願うことは出来ても、前と同じように友人でいられるだろうか。

「……手放すには、少し、惜しいよな。」

しばらくして、外には大粒の雨が降り始めた。



ふ、と眠りから覚めてしまった。雨は止まない。もう月も登ってそれなりの時間が経った。何処かゾワゾワとした嫌な予感がする。無意識に手に握った道満の札を握りしめた。

次の瞬間、札が嫌な音をたてて破れる。手の内でボロボロになったそれを見て悟った。

「そうか、それがお前の選択か。晴明。」

突如、身体中が火炙りをされたかのように熱くなり、常に全身を切りつけられたかのように痛む。

「お前が、本当にあやつが好きで、道満もそれを認めたなら、喜んで送り出したものを……」

四肢が折られる。血が体を巡るのが痛い。腸から何かが蠢いているように感じる。誰かが首を絞めている。

「ああ、道満が泣いてしまうな……」

目が見えなくなってきた。血が込み上げてくる。足は押しつぶされたように痛む。心臓が誰かに掴まれているようだ。ああ、苦しい。

「ふふ、愚かさは人並み、……私と並んでおるぞ、晴明……」

血を吐いて呻きながら息絶える。

「道満……」

ああ、道満の札が私の血で汚れてしまった。勿体ないことをした。



雨は小降りになった。

「これで終わりか」

周りに散らばるのは悪霊の欠片と、破れた式神。やるべき仕事は終わったので、早く帰ることにしよう。顕光殿のことも気がかりだ。胸騒ぎは収まるどころかむしろ増している。もしもの事があっては行けない。あの人は、この京の都で唯一、儂を認めてくださった人だ。

「……ンン?」

帰り道の先になにかがいる。暗闇の中でそれは人の形をなしていたが、気配から生きていないことが伺える。敵意は無いようだ。ただこちらをずっと見つめている。

恐る恐る近寄る。並大抵の霊であれば簡単に祓えるが、油断はできない。

近づいて、それがなんの姿が分かった。

「……顕光殿?」

何故顕光殿が、もしや幻の類をつかう妖か?そう思い術で正体を見破ろうとしたが、姿は顕光殿のままだった。

「何故……ここに……いや、しかし、」

何故顕光殿が霊に――

「道満、すまない」

泣きそうな微笑みを浮かべた彼は、いつもの様に頬を指先で、壊れないように傷つけぬように慈しむように一筋撫でる。

ぐちゃり、と音がなり目の前にあった人の姿は完全に消えうせた。

「あ、き……みつどの……?」



まだ日も登らぬ時間。道満は走った。泥濘に足を取られながらも、真っ直ぐ、真っ直ぐ、顕光の住む屋敷へ向かった。見慣れた門は閉じられていたが、塀を越え無理やり入る。真っ直ぐ顕光の眠る寝殿を目指す。

「顕光殿!顕光殿は!!」

寝殿に入り顕光殿の帳台へ向かう。無礼なぞ知ったことか。帳台の帳を捲る。

帳台の中に無残な顕光殿がいた。体から血が吹き出し白かった髪の毛は血で赤く染っている、肉が斬れ、肋骨が覗いている。四肢は尽く粉々にされ、その血もまた呪いを帯びているようだった。手には血に赤く染った道満の札が握られていた。

「あ、ああああああああぁぁぁ!!!!!」

苦痛を浮かべた表情のなかに、どこか憂いを帯びた微笑みがあるのは、最後に愛を伝えられたからだろうか。それさえも分からない。

必死に彼の体だったものを掻き集める。バラバラにされた肉塊も、染み付いた呪いもそのままに抱きしめる。既に冷たくなったそれは、死の実感を与えてくれない。

ただ泣くことしかできなかった。



翌朝、道満は血みどろの服もそのままに陰陽寮に訪れた。いつもの笑みとは違う、なんの表情も浮かべぬ道満を見た者達は近付きさえしなかった。陰陽師のものであれば分かるだろう。道満の浴びた血に、本来であれば人が耐えられない程の呪いが染み付いていることに。

「ど、道満殿、晴明殿は今、務め中にて」

「黙れ」

勇気を持って話しかけた下働きが気絶する。倒れた者を他所に道満は真っ直ぐ晴明の自室へ向かった。静かに、静かに、鈴も鳴らさず。


「顕光殿を殺したのはお前か。」

晴明は自室にて文をしたためていた。まるで来るのがわかっていたかのように微笑んだ。ああ、その笑顔が、わしは嫌いだ。その人を食ったような笑顔が。

「……すまないがなんの事かな、知らないから答えられない」

いつも通りの笑みを浮かべている晴明に怒りが募る。

「誰の依頼だ。藤原道長殿か、それとも顕光殿の座を狙う者か。」

誰だ。誰だ。あの人の死を望んだのは。儂が呪ってやる。呪い殺してやる。

「答えられない」

晴明はいつも通り笑う。なぜ笑う。何がおかしい。

「何故だ。」

「わからないと言っているだろう。」

しらを切る晴明に怒りが湧く。気がつけば大声を張り上げていた。

「いいや晴明だ!術の痕跡こそないがお前の術の癖が出ていた!それにあの日は儂のあるだけの力を込めた札を付けていたのだ!術をかけたものの探知が出来る術をかけた!!あれを避けられるのはお前しかおるまい晴明!!」

突然大声を上げた儂に驚いたのか目を丸くした晴明がいた。ああ、目が熱い。目が溶けてしまいそうだ。

「……」

「何故、何故殺した……何故……」

膝をつき泣き崩れる。何故、顕光殿を儂から奪った。どうして、晴明は儂から何もかもを奪いさる。やっと与えてくれた優しさも、愛情も、もう儂の手にはないではないか。何もかも奪うのはたのしいか、晴明。

「道満、」

「寄るな!!」

伸ばされた晴明の手を弾く。そのまま晴明の部屋を飛び出した。誰とすれ違おうと、呪いを周りに振りかけようと気にせずに進んだ。

道満も人を呪うことはあった。呪いを扱う者なら当たり前だ。だとしても、愛した人が呪い殺されたことを受け入れることは出来なかった。我儘かもしれない、自分の事を棚に上げているかもしれない、それでも、そうだとしても――晴明は殺しの依頼など受けないと、思っていたのに。

一方的な思いを裏切られただけと分かっていたが、愛する人を失った道満には追い打ちをかけるような、深い傷を与えた。



「……してやられた。」

道満が出ていった自室で晴明は静かに呟いた。あの爺に嵌められた、と。

顕光を殺すのが最善の手だと思った。殺せば道満は自分しか見れなくなると。だが結果はどうだ?道満の心には、顕光しかいない。私が殺したことで、私は超えるべき相手から顕光を殺した相手になった。それでも、道満が見てくれるならよかった。復讐の為に足掻く姿でも、私の為に努力し、勝負を仕掛けるなら、それでよしと思っていたが。

しかし、道満は顕光しかみていない。失敗だ。普段なら打たぬ悪手を打ってしまった。