狩衣

 黒く美しい菱形の紋様が着いた狩衣に袖を通した。顕光の屋敷に仕えている家司の一人がそばに付き、慣れない狩衣の着用を手伝ってくれた。

 良い生地を使っているのだろう。肌触りは心地よく、紋様は美しい。細かな刺繍も細部に施されており、道満が一生かけて金を集めても買うことは難しいと考えられる。そして香りが焚き染めらせているのか、それとも屋敷に置かれていたうちについてしまったのか。顕光の好む梅花の練香の匂いがした。

「どこか着心地の悪い所はありますか」

「いえ、ありませぬ。非常に着心地がようございます」

「それは良かった。では南の釣殿に。顕光様がお待ちです」

「ああ、その前に一つお願いしたいことが」

「なんでしょうか」

「櫛と鏡を貸していただきたいのです」


 家司の後をついて歩く。顕光と同じ年頃であろう老いた家司はその衰えを感じさせないほど背筋を伸ばし、真っ直ぐ歩いている。

 母屋を抜けて、池を回り込み、南の釣殿へ。中島と屋敷を池を挟むように眺められるそこは、人の多く住む堀川の屋敷の中で最も人の気配を感じにくい場所だった。月の映る水面を眺める影がひとつ。小さな釣殿であぐらをかいている。

「顕光殿」

 影に声をかける。仕事着の束帯でなく、狩衣を着てゆったりと寛いでいる影はこちらを向いた。

「道満。きてくれたんだね」

「ええ……しかし、これは拙僧には少々高価過ぎるように思います」

 本来であれば道満では買うことは出来るはずのない丁寧に作られた綾織物の狩衣。普段着ている法衣が決して安価なものという訳では無いし、民間の法師陰陽師の中ではいい収入を得ているが、あまりに高価なものだということが分かる。また、体の大きさに左右されにくい構造になっている服とはいえ、道満の体の大きさに合うということは、家にあった使わない狩衣ではなく新たに作らせたということである。

「まあ、そうかもしれないな。でも君にはもっと似合う服を来てもらいたくてね、我儘に付き合わせてすまない」

「我儘など……いえ、拙僧の伝え方が悪く、身に余るものだったと言いたかっただけなのです」

「うん、分かっておる。だが、よく似合っている」

 差し込むような月の光が、優しげな老人の顔を照らした。シワだらけの、白い指が道満の顔に近づいた。しかし、触れることはなく手は下ろされてしまった。

「ああ、化粧をしていたんだね」

……!気付いておられたのですか」

「まあ、私が贈ったものだから。ありがとうね、つけてくれて」

 顕光が贈った紅。紅花を染め重ねた韓紅。高位なものしか身につけることが出来ない紅を賜ってから、道満は時折化粧をして顕光の屋敷を訪れるようになった。

「顕光殿は狡い御方です」

 顕光は小首を傾げる。

「ずっと拙僧ばかり頂いております。拙僧は何も顕光殿に返せておりませぬ」

「占いとか札とかよく貰ってるしそんなことは無いと思うが」

 道満は顕光の肩を掴み、鬼を思わせる形相を浮かべた。

「あります」

「そ、そうか」

「なので……

 道満は顕光の肩から腕をなぞるように手を滑らせた。そのまま顕光の手を掴み、己の方へ引き寄せた。

「此度は拙僧が顕光殿を美しく致しまする」

「え、なんで?」

 


 母屋に戻り、道満は慣れた手つきで顕光の顔に化粧をし始めた。顕光は老人とはいえ公卿。最低限のマナーとしての化粧はしているが、美しくなどするつもりは無い。なによりそのような化粧をしたところで周りの公卿に爺の妙な若作りだと揶揄われる。

 髪を梳き、白粉を塗り、眉を描き、紅を塗る。一つ一つの動作を丁寧に行う。道満の鋭い爪が顔に近づくのは少し恐怖を覚えるが、爪の先は顕光の顔に触れることはなく順調に化粧を進めていく。


「ンフフフ、お似合いですぞ」

 道満は顕光の唇に紅を塗りながらそう言った。塗り終わってから一言「揶揄うな」と言えば心底楽しそうな笑みで返された。

 化粧や髪を崩さないよう触れるか触れないかの曖昧な間隔で道満は顕光を指先で沿うように撫でた。擽られたような感覚の顕光は僅かに身を震わせている。顔の良い道満ならともかく、爺など愛でて何が楽しいのだろうか。顕光は法師の考えることは分からないと思いながらそれを甘受した。

……どうかしたか」

 撫でながら神妙な面持ちになった道満を不思議に思った。

「いえ、どこぞの狸には見せられぬと思いまして」

「は?たぬき?」

 先程の鬼の形相と似たような笑みを浮かべた道満は「化粧を施した姿は拙僧以外に見せないように」と顕光に念を押した。

 

 道満が化粧した顕光を甘やかして小一時間。冠が外れる寸前まで頭を撫で回された。爺には少々精神的にキツいものを感じた。甘んじて受け入れるべきではなかったかもしれない。

 朝を迎えるまでこの屋敷に居ても良いにも関わらず、道満はいつも夜が更ける前に帰る。法衣を着直して、狩衣似合うように結ばれた髪を解いて。

「もう帰るのかい」

「ええ、明日は少々大掛かりな仕事がありまして」

「そうかい」

 顕光は少し残念な気分にもなるが致し方なし。道満は民間の法師陰陽師の中では相当優秀な部類にあたる。依頼も私が思っているより多いのかもしれない。

「顕光殿、」

 母屋を後にしようとした道満が御簾越しに声をかける。

「また、夜に来てもよろしいでしょうか」

「ふふ、今更だな」

 ンンン、と御簾の奥から唸るような声が聞こえた。

「もちろん、待っているとも」