立待月

 悪夢を見せる。そう決めたはいいものの、どんな悪夢がいいだろうか。顕光はなにか参考になるものは無いかと図書館に来ていた。辺りは静かで、ほの暗く、心地よい空間を作り出している。

 顕光と道長、平安の時代に関する記録だけでなく、さまざまな時代、場所問わず資料に目を通す。顕光は準備は怠らない性格だった。本番に弱いのはわかっていたので、準備や確認は必ずした。まあ、その上で失敗し続けてきているのだが。

 顕光は死後、道長の娘を呪い殺した。それは、私が味わった苦しみと似たものを味合わせようと思ったからだ。その思惑は上手くいき、道長は娘たちの死を悲しんだ。であれば、娘の死に様を夢で見せるのも良いかもしれない。だが、この夢を全く同じように見せるのも意味がない。顕光はこの夢をより残酷なものにしたかった。

 どのような悪夢を見せようか。今のところ目を通した資料には良い物はない。並大抵の悪夢では、きっとあやつには通じないだろう。

 うむむ、と顕光が唸った。するとテーブルの向かいに誰かが座った。

「あら、何か調べ物をしたのかしら?」

 目の前にいたのは童話の幼子、ナーサリーライムだった。少女の形をしたその子は目を輝かせている。童話をよく知るこの者であれば、何かいいものを知っているかもしれない。

 道満の好きそうな話を探している

 近くに置いたメモ用紙に西洋の筆記具で文字を綴る。流石に悪夢を見せるため、と伝えるのがまずい。顕光がそう書くと少女はうーんと悩んだ。

「悲しいお話はあまり好きではないけれど、この本なら気にいるはずよ」

 悩んだ彼女が駆け出して、取ってきた本の表紙のはグリム童話と書かれていた。

 顕光はグリム童話について少し知っていた。道満が子供たちに読み聞かせをする際に、グリム童話の絵本をいくつか読み聞かせていたからだ。その話では最後、狼が腹を裂かれて祖母と孫娘が助かった。そこまで酷い話ではなかったように思えた顕光は首を傾げた。

「この本はグリム童話の原作を載せたものよ。元はとっても怖いお話ばかりなの。でも今ある絵本たちはみんな怖い表現を少なくしてるわ。きっと、子供たちを怖がらせる必要がないからね」

 眉を八の字に下げて語る少女の頭を撫で、感謝をメモ用紙に記した。

「お礼を言われるほどじゃないわ!」

 悲しげな表情から打って変わり、花の綻ぶような笑顔を浮かべた少女がそこにいた。

 少女から差し出された本を手に取り読み始める。はじめに載っていたのはシンデレラだった。継母、義理の姉たちから酷い仕打ちを受けていることは同じだが、絵本のような魔法使いは登場せず、行き帰りは徒歩。継母達だけでなく、実の父親は娘を庇おうとすらしない。それどころか、父親まで娘を出来損ないの灰かぶりという始末。

 顕光はこの男を殴りたくなってきた。顕光も娘を無理やり尼にしたことはあったが、あれは娘が不貞を働いたからだ。かわいい娘を灰かぶりと罵る男の言動が理解できなかった。

 ペラペラと本を捲る。目の前にいた少女も何かしら絵本を読んでいるようだ。顕光が生きていた頃も、こうして本を読むことは楽しいものだった。他の公卿とは違い、その知識を政に生かすことはできなきなかったが、本を読んでいる間は現実から目を逸らすことができた。

 物語も終盤だ。継母は王子が持ってきた靴の入らない自分の娘に足を切れと告げている。道長でも流石にそこまではしないぞ、と呆れながら読み進めた。

 

 いくつかの話を読み終わり、時計に目を向けると、時刻は三時をさしていた。

「あら!お茶の時間だわ!」

 少女は約束があるのか慌てて、「悪霊のおじいさま!またお会いしましょうね!」といって出ていってしまった。

 顕光は思ったよりもこの本が面白かった。絵本にはない残酷さが顕光を楽しませていた。もちろん、子供が酷い目に遭うのは心が痛むが……。道長が悲惨な目に遭う悪夢を作る参考にはなった。

 顕光は本を閉じ、元の場所へ戻そうとしたが、ナーサリーがどこから持ってきたか聞くのを忘れていたことを思い出した。

 この図書館には紫式部がいる。顕光は彼女に頼もうかとも思ったが、思いとどまる。あの娘は顕光のことをよくは思っていない。おそらく、道長や公卿達と集まった酒の席での顕光を知っているから距離を置いているのだろうと思う。生憎、顕光は酒癖が悪かった。女に絡んだり、家具の布のほつれを見つけては破るなどしてしまった。また彼女は道長に近い人物でもある。できる限り触れぬ方が良いだろう。

 顕光は彷徨って童話などが置かれた棚を探すことにした。まだ夕食まで時間はある。良い暇つぶしになるだろうと顕光はふらふらと歩き出した。

 目的の棚はすぐに見つかった。子供の絵本が並んだ棚にグリム童話を綺麗に並べているのが目に入った。顕光は本を棚に戻し、まだしばらく暇があるとふらふらと蔵書を眺めた。子供向けの本たちはどれも色彩豊かであり、愛らしいものが多い。そして、世界中の御伽噺が集まっている。ここに顕光の孫にあたる宮達が居れば気に入ってくれたことだろう。

 顕光はぼんやりと歩き続けた。

 だいぶ時間が経ったのか、柱時計がボーンと低い音を鳴らす。顕光は手に取った本を戻し、図書館を出た。無機質な廊下を通り、道満の部屋へ戻る。出来るだけ人通りの無い道を抜け、部屋に戻ると道満は寝台の上であぐらをかいて座っていた。

「おや、顕光殿。もうお戻りですか」

 いつもの笑顔で道満がたずねる。首を縦に振ると「そうですか」と目を閉じて微笑んだ。

「ところで、悪夢の内容は決まりましたか?」

 道満がニヤリと嗤った。怪しげながらも美しい笑みを浮かべる道満は寝台から離れ、顕光に絡みつくように体を擦り寄らせ、耳元で囁く。

「御決まりならば拙僧、顕光殿の作る悪夢に大変興味があります。教えてはいただけませぬか?」

 ならぬ、と顕光が告げれば、ンンンと唸り残念がりながら寝台に戻る。

 顕光はこの夢を誰に教えるつもりもなかった。道長が娘の死に、己の病に苦しんだ時のあの顔は顕光にとって非常に甘美なものであった。咲き乱れた花よりも美しく、どのような美酒よりも顕光を酔わせた。故に、たとえ地獄を共にした道満であっても分け合うことを許さない。見つけた宝を自分だけのものにしたくなるのと同じく、あの絶望を与えるのは自分だけでいいという歪な執着心からくるものだ。

 

 夜が来た。しん、と静まり返った廊下を歩く。霊体化して道長の部屋の前まで来た。

 すっ、と扉を通り抜ける。道長は寝台で横になっていた。両目を閉じているが、サーヴァントに眠りは必要ない。また、顕光が呪ったことも考えれば、眠らずに意識を張り巡らしている可能性もある。部屋に入った顕光に勘づいてもおかしくは無いが、それはどうでもいい。どうせ私の呪いからは逃げられないのだから。

 顕光が手を伸ばす。眠る顔は普段より幼く見え、まだ元服前の小さな道長を思い出す。嗚呼、昔はまだ可愛げがあったのに。

 道長が動けないよう体を金縛り、道長へ干渉する。心の臓に触れるように道長の胸に手をあて、そこから呪いを流し込む。

 穏やかな顔が徐々に歪む。呼吸が荒くなり、逃れようと身をもがく。苦しめ、苦しめ。顕光は顔に貼られた式札の目を細めて笑う。英霊は夢を見ない。そんなことは百も承知であるが、悪霊には関係ない。道長の中を蹂躙するように蠢く呪いは悪夢を形成する。


 今宵見せるのは、お前の娘が殺される夢。


 弱り、床に臥す愛娘が軽く咳をするのが目に映った。柔らかかった頬はそげ落とされたようになり、目は虚ろ。美しかった髪は艶を失い、細く、骨の存在を露わにする四肢は力を込めるのも難しくなってきている。

「妍子、何か、欲しいものはあるか」

 死も間近となった娘に道長は問いかけた。声も出なくなった娘はか細い手を自分の髪に伸ばし、手真似で切る動作をする。大切にしていた髪を切る、出家をする意を道長は汲み取った。道長は立ち上がってそばに居た女房に鋏を取りに行かせる。

 こうして娘が苦しんでいるのに、道長ができることは少ない。だからこそ、娘が頼んだことは何でもするつもりだった。

 戻ってきた女房から鋏を受け取る。鋏がきたことを知ったのか、娘は体を起こそうとした。道長は娘の背に手を当て、起こすのを手伝う。体を起こすだけでも一苦労になった娘の背は、布の上からでも骨がはっきりと分かる。

「切るぞ」


 娘の髪をちょきん、ちょきんと切ってゆく。はらはらと床に断ち切られた髪が落ちてゆく。切ったばかりの不揃いな髪先をできるところまで綺麗に仕上げる。

「ふむ、終わったぞ」

 女の髪など切ったことはないが、おおよそ綺麗にできたのではないか。道長は女房に鏡を持ってくるように伝えた。実際に見ることができた方がいいだろう。娘の帳台に刺すような冷たい風が入る。もう冬を告げるような時期であったか?道長は疑問に思いながら早く娘を横にしようと声をかけた。

「そろそろ横になろうか」

 声をかけるが、娘からの返事はない。

「妍子?」

 ぐらり、と娘の体が横に揺れた。

 力なく倒れた娘の目には生気がない。先ほどまでは返事をしていたのにも関わらず、そこには亡骸があるだけ。もしかしたら切っている最中、いや切り始めた時からすでに死んでいたのかもしれない。

 死んだという実感さえわかぬまま、道長の口は言葉を紡いでいた。

「私も、一緒に、あの世へ連れていってくれ……」

 

 その言葉を吐いてすぐ、どこからともなく笑い声が聞こえた。おぞましい声、だがどこか聞き覚えのある声。庭の中央に誰かいる。

ははは、と心底愉快そうに笑う貴族の男は、生憎霞んだ目では誰かまではわからない。おかしい、この声に聞き覚えはあるのに。

「私の声も忘れたか、道長」

 声の先は、庭にいる男からではない。道長のすぐそばから聞こえた。

 死んだはずの娘の口が動いている。

「悲しいなあ、道長よ。私のことも忘れるとは」

 私は忘れられずにの呪い続けているのになあ。

 娘の顔が歪に笑い、また死んだ顔に戻った。

「なあ、道長」

 声は天井から聞こえた。呼びかけに応え上を見上げる。

 そこには庭にいた貴族の男がいた。濃い隈と、色の抜けた手入れのされていない髪と、蛇の尾。ああ、思い出した。この男はーー。

「お前も連れていってやろうか?」


 

「あなたの仕業か、従兄殿」

 

 ぱちり、と道長が目を開いた。見開いた目が顕光を捉える。徐々に落ち着きを取り戻したのか、普段と何ら変わらない顔つきに戻った。金縛りを解けば襲いかかってくるかとも思っていたが、何もせずにただ顕光を見つめるだけだった。

 ずる、と道長の胸から手を引き抜いた。引き抜かれた痛みに道長が僅かに呻く。

「満足したか」

 道長が口を開く。その目はもう恐怖を湛えてはおらず、見定めるように鋭い。つまらない。先ほどまで逃げ惑っていただろうに。この男のこのようなところが嫌いなのだ。

「飽いた」

 そう言って道長から離れる。もう少し感情的になれば面白みのあったものを。顕光は興味を失ったように道長から離れた。

「従兄殿、堀河左大臣殿」

 部屋から出て行く寸前、道長が呼び止めた。振り向けば体を起こした道長が顕光を見ていた。

「遅くなってしまったが、先日の非礼を詫びたい。貴殿を蔑ろにするつもりはなかったのだ」

 目線を下げ、顕光に謝罪をする。そんな今まで見たこともないような道長の姿に、顕光は動くことができなかった。長い沈黙が二人の間に鎮座する。どちらが口を開くこともなく、嫌な静寂がそこにあった。

 顕光は混乱していた。あの道長が、何度も冷罵し、酷評し罵ってきたあの男が。

……頭に蛆でも湧いたか?」

「は?」

 先ほどまで悪夢を見せられていたはずなのだ。それなのに悪霊相手に謝罪など、頭がおかしくなったとしか言いようがない。顕光の口から出た言葉に怪訝な顔をしているが、むしろこちらがその顔をしたい。まあ、顔などこの取ってつけたような式札しかないのであるが。

……許さぬ。どんな小さなことであれ、お前の所業であれば許すことなどありえぬ」

 顕光がそう答えれば「そうか」と変に顔を緩める道長がいた。気に障ったので呪いを贈れば、先ほどまでの悪夢と共に贈った呪いと相まって、道長は再び床に臥すことになった。

 顕光はそのまま道長の部屋を後にした。呪いに臥した道長が、満足そうに笑っているのに感づくことなく、道満の元へ戻った。